
はじめに|静寂の場を破る、思わぬ言葉
葬儀とは、故人との最後の別れを静かに過ごす神聖な時間。
そこでは笑いも騒がしさも控えられ、それぞれが心の中で別れを告げ、遺族に寄り添う——そんな空気が流れています。
しかし、そんな「静けさ」を破る出来事が、現実には起こり得ます。
「え、今それを言うの?」と場の空気を凍らせるような言葉。
今回は、友人が体験した葬式での“宗教勧誘”エピソードをもとに、宗教の自由とマナーの境界線について考えていきます。

実際にあった話|葬儀で創価学会に勧誘された友人
「高校生の頃だったと思う。親戚の葬儀に参列したら、親族のひとりから“創価学会に入りませんか?”って言われたんだよ。」
苦笑いを浮かべながらも、友人は当時の怒りを隠しきれない様子でした。
「“〇〇さんも友人葬で立派に送られたのよ”とか、“宗教の力で救われる”とか、ずっと語られて……。こっちはただ静かに偲ぎたかったのに、完全に空気が壊れた。」
——“葬式”というタイミングで、宗教への誘いを受けることが、どれほどデリケートな問題か。
この一件は、「信仰の自由」と「空気を読むマナー」が交錯する、現代日本ならではの問題を浮かび上がらせます。

宗教の自由 vs 空気を読むマナー
日本国憲法では「信教の自由」が保障されています。
どの宗教を信仰しようと、それは完全に個人の自由です。
しかし、見落とされがちなのが「信じない自由」や「そのタイミングで聞きたくない自由」もまた、同じく尊重されるべきということ。
特に葬儀の場では、参列者が悲しみの中にあり、宗教の話に耳を傾ける心の余裕はほとんどありません。
そこに信仰の話を強く持ち込むことは、「配慮のなさ」として受け取られてしまうのです。

実体験|僕も感じた“場違いな熱意”
僕自身、似たような体験をしたことがあります。
ある葬儀の控室で、ひとりの参列者が「友人葬は本当に素晴らしいんですよ」と話し始めたんです。
それはまるでプレゼンテーションのようで、共感を求めるというより、参加を促す空気が漂っていました。
“今、その話をする必要ある?”
“ここって勧誘の場なの?”
と思ってしまったのが、正直な感想です。
宗教の素晴らしさを語ること自体は否定されるべきではありませんが、「どこで」「どのように」伝えるかは非常に重要です。

善意が相手を傷つけることもある
創価学会に限らず、熱心な信者ほど「この教えを伝えたい」という純粋な気持ちを持っています。
しかし、「良かれと思って」の行動が、時としてナイフのように相手の心を傷つけることもある。
それが、葬儀という極めて繊細な場であればなおさらです。
どんなに素晴らしい思想も、タイミングや相手の心情に配慮しなければ、ただの自己満足に終わってしまいます。
「勧誘」と「会話」はどう違うのか?
「宗教の話をするだけで勧誘になるのか?」と疑問に思う人もいるでしょう。
その線引きは確かに難しいですが、大事なのは「自分の意図」ではなく「相手の受け取り方」です。
聞いていないのに一方的に語られると、それは**“勧誘”と感じられても仕方がない**。
葬儀の場は特に、心が敏感になっている時。
その場で宗教の価値観を押し出すことは、他者の感情を踏みにじってしまう危険性があります。

本当に必要なのは「静かに寄り添う姿勢」
葬儀は、本来「故人を偲ぶ場」であり、「遺族を支える場」です。
その本質は、宗派や形式ではなく、祈り・思いやり・沈黙・敬意といった心の在り方にあります。
信仰を語るなら、それは別の場で、相手の心に余裕がある時に伝えるべき。
その時こそ、宗教が本来持つ“人を救う力”が真に伝わるのではないでしょうか。
この記事を書いた理由
この記事は、特定の宗教を否定したいわけではありません。
創価学会の「友人葬」も、多くの人にとって大切な形式です。
しかし、「どこで・誰に・どう語るか」を誤ると、逆効果になることもある。
だからこそ、この記事ではその「境界線」について、あえて言葉にして伝えたかったのです。
終わりに|信仰とマナーが共存する社会へ
「信仰の自由」と「空気を読むマナー」は、決して対立するものではありません。
むしろ、両立できたとき、その宗教は社会からより深く理解され、信頼される存在となるはずです。
葬儀の場は、誰かの信仰を語る場所ではなく、故人と遺族に静かに寄り添う時間である——
そのことを、私たちは忘れてはならないと思います。
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