──「ない」と言い切るには無理がある理由 ──
はじめに
「真如苑って、勧誘ノルマあるんですか?」
この質問に対して、よく返ってくる答えは決まっています。
「公式にはありません」
確かに、真如苑 の公式資料や表向きの説明を見ても、
「年間◯人勧誘しなければならない」といった明文化されたノルマは確認できません。
――ですが、それで話が終わるなら、
ここまで多くの人が「ノルマのようなものを感じた」と語るはずがありません。
この記事では、
「ノルマはない」という建前と、
「ノルマがあるように機能している現実」
そのズレを、はっきり言葉にします。

結論を先に言う:制度としてのノルマはない。だが“逃げ場もない”
まず結論から。
- ✅ 公開された公式ルールとしての勧誘ノルマ → 存在しない
- ✅ しかし、信者が「やらないといけない」と感じる構造 → 確実に存在する
これは矛盾ではありません。
ノルマは「数字」ではなく「空気」として存在している
──それが、真如苑の勧誘を語る上での核心です。
真如苑における勧誘は「勧誘」と呼ばれない
ここが、話をややこしくしている最大のポイントです。
真如苑では、紹介や勧誘行為を
「おたすけ」 と呼びます。
「おたすけ」=善行・功徳
- 人を連れてくる
- 信仰に触れさせる
- 集まりに参加させる
これらは単なる勧誘ではなく、
「相手のためになる行為」
「功徳を積む尊い行い」
として位置づけられています。
この時点で、すでに構図は完成しています。
👉 やる人=善い
👉 やらない人=善行を放棄している
命令がなくても、やらない側が“後ろめたくなる”設計です。
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「目標」という名の圧力が日常的に語られる
信仰仲間の集まりや活動の場では、こんな会話が珍しくありません。
- 「最近、おたすけどう?」
- 「今回は何人声かけた?」
- 「まだ救われていない人が周りにいるはず」
ここで重要なのは、
「やれ」とは言っていない という点です。
しかし同時に、
- できている人の話は称賛され
- できていない人は黙る
という空気が、確実に積み上がっていきます。
これはもう、
ノルマがないから自由
ではなく
ノルマがないから、逃げ道もない
状態です。
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元信者が語る「内部では当たり前だった話」
一部の元信者や外部ブログでは、さらに踏み込んだ話も出ています。
- 「内部教育的な“学校”に進むには、勧誘実績が事実上必要だった」
- 「毎年ある程度おたすけしていないと、次に進めない雰囲気があった」
- 「直接言われないが、皆わかっていた」
これらは教団公式に確認された制度ではありません。
そのため、断定はできない。
しかし――
複数の人が、別々の場所で、似た体験を語っている。
この事実を、
「たまたま」「誤解」で片付けるのは無理があります。

ノルマが“ない”のに、なぜ皆が同じ圧を感じるのか
答えは単純です。
- 勧誘は善行
- 勧誘できる人は評価される
- 勧誘しない人は語られない
この3点が揃えば、
ノルマは制度化しなくても自動的に機能します。
会社で言えば、
- 数字目標はない
- でも達成できないと評価されない
――それと同じ構造です。
名前を変え、数字を消し、
「信仰」「善意」という言葉で包んだだけ。
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まとめ(わかりやすく・逃げずに)
| 項目 | 実態 |
|---|---|
| 公式な勧誘ノルマの存在 | ❌ 公開された公式ルールとしてはない |
| 信者側の「ノルマ感」 | ✔ 多数の体験談として存在 |
| 勧誘が信仰上重視されているか | ✔ 明確に重視されている |
| 実際のプレッシャー | ✔ 精神的負担になった人がいる |

おわりに:問題は「ノルマの有無」ではない
問題は、
- ノルマがあるか
- 強制かどうか
ではありません。
「やらない自由」が、実質的に存在するかどうか
そこです。
真如苑の勧誘は、
- 表では「自由」
- 内側では「当然」
として機能している。
だからこそ、
後から振り返った人ほど、こう言うのです。
「ノルマはないって言われたけど、
ないとは思えなかった」
この違和感こそが、
いちばん正直な答えなのかもしれません。
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